仕事観 |
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| 精神的な満足のために職に就いているような気もする 新しい製品を開発し、世に浸透させる。そして、誰もが気づかないうちに自分が作ったものを使っている。ある意味支配欲である。製品が社会を支配しているなんてね 自分が作った料理を食べてくれた人が、美味しいと言ってくれるのが嬉しい 感謝を得たいために、自分は料理を作る。これも、幸福を対価にしていると思う。 誰かを幸せにするために・・・をする。 他者にしてあげたことは自分を幸せな気持ちにしているとも考えられる。 私の演劇、歌、漫才で誰かを感動させたい。 これも、精神的幸福を得ようとしている。 そうか、他人からの感謝が一番の幸福の元なんだろうな 誰かが嫌な気持ちになるものは、自分も嫌なものだ。誰かを悲しませるのは、自分も悲しい。 けれども、どうしようもなく貧困に陥っている人もいて、他人のことなんて考えられなくて、自分も苦しい時がある。そういう人ほど、誰かに感謝されることをしたらいい。 他者に認められることは、これほどまでに大事なことだとは私は思っていなかった。 一日一善は自分を幸福にする魔法だったのだ。
物質と精神の結びつきは きっとそうなんだろうな。
お金を得て、生活を豊かにして そのあと、どうしていくか 仕事自体が楽しくて心が豊かなら 実は最低限のお金さえあればいいような気がする。
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7月2日(月)18:53 | トラックバック(0) | コメント(0) | 未分類 | 管理
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目的の無い満足感 |
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| 国語で作文がとても苦手であったから、理系に逃げてみたけど 結局、英語と報告書に追われる日々である。 バランスはとても大事だったのに、得意分野に専念しすぎた。 けれども、語る言葉を持たないので、知っているけれど 表に表せないという悲しい状態である。 断絶されているのだ。
やはり、モノマネが一番いいのかもしれない。私は、実は真似が得意だったのだ。 書道、美術しかりマネをすることが出来た。数学しかり、数式と解き方のマネで解けた。 スポーツも誰か上手い人を見習った。そうして、技術を学んできたと思う。
幼いころはそれでよかったのだが、そうしていくと 自ら新しい発想をすることに関しては、そうとう落ちぶれていた。 想像力がとても乏しい。だから、物語なんて書けないし、新しい実験事実に関して考察も出来ない。 描写力が乏しく、会話能力に劣る。そんな人間である。
よくよく考えてみれば、なんでも興味を持って始めるものの その少し出来るようになった その先が何も無かったのだ 出来ることで満足していたのであった
書道は、プロである。私は習字である。字を習っていたに過ぎない。書道は、芸術の一つである。つまり、美術作品として創作されるのだ。ただ、無心に字を真似ているのとは異なり、自らがその字に思いを込めて、その情状を白紙の紙にぶつけるのだ。つまり、自己表現の何物でもない。
それは、勉学にも言える。知っているだけで満足しているのでは、その先何も作り出すことは出来ない。何のために勉強しているのかである。知識欲を満たしたいだけならば、延々とウィキペディアを見ていればよい。机上の空論とはよく言われたものだ。 そのような、現実味を帯びない知識に関して、憤りを感じていたのは自分自身であったと思う。けれど、自分自身、その先を決めかねたまま時間を過ごしてしまった。 そう、目的が無いのだ。勉強はその目的を達成するための手段でしかないのだが、肝心の目的が無い。これこそ、夢が無いという状態なんだと思う。 そして、自分の可能性を生かすことも出来ないまま、宙に漂い続けていくのではないかという不安に襲われるのであった。
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7月2日(月)17:14 | トラックバック(0) | コメント(0) | 未分類 | 管理
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